2012年08月03日
<8月号>第8回「駿府城・外堀」編
今月の特選ネタ
8月。
夏本番。
みなさんこんにちは。
夏休みは、
海!
リゾート!
海外!
そして・・・橋!
ですよね!!
かく言う僕も、夏休みはどの橋をめぐろうかと考えてばかり。考えすぎて夜も眠れません。寝不足です。
そんな8月の橋めぐりは、こちら。意外と身近な、あの場所にある橋です。
駿府城橋めぐり
(在りし日の姿。そう、駿府城は天守閣など、当時の建物が現存していないのです・・・!!)
駿府城は、江戸幕府の開祖・徳川家康が最晩年に住んだ城として知られています。
駿府(静岡)移住後も家康は「大御所」と呼ばれ、幕府への影響力を持ち続けました。
そんな家康の居城があった駿府はたいへんにぎわい、江戸と並ぶほどであったといいます。
(復元された、駿府城の巽(たつみ)櫓)
駿府城は、日本の代表的な城郭スタイル。3重のお堀が周囲を囲み、外敵の侵入を防ぎます。
築城は1585年。1891年に静岡市の所有となった駿府城は公園化されました。
基本情報はこちら。
静岡県内のお城を特集した特設サイトがあるんです!
<クリック!>Shizuoka城と戦国浪漫
巽櫓についてはこちらが詳しい。
<クリック!>駿府城二の丸 東御門・巽櫓
その後、市民のいこいの場として親しまれてきた駿府城公園・・・!
今回、その駿府城のお堀にかかる橋をめぐります。
【駿府城のお堀】
駿府城にあるお堀は3層。
一番外側にある、外堀。
次が中堀。
もっとも内部にあるのが、内堀です。
明治維新の後、埋め立てられたりしたお堀もあるそうですが・・・
中堀と(東側をのぞいた)外堀は、ほぼ江戸時代の姿のままだそうです。
【いざ外堀から】
今回の駿府城橋めぐりは、外堀にかかる橋から徹底追及!
早速行ってきました、外堀へ。
①城代橋
(安定のコンクリート製。お堀の幅は5,6メートル?)
昨年オープンした静岡市の新静岡セノバ近く、御幸通りにあるのは「城代橋」。
(城代橋からセノバを見る)
当時のエリート役職だった「城代」の屋敷がこの橋の奥にあったそうです。
現在はコンクリート製で、意外と小さな橋。明治30年にかけられた橋です。
この石垣のところにある木々は桜。春には満開になって、お堀には桜の花びらがたくさん浮かびます。
<クリック!>画像検索:駿府城 お堀 桜
ほとんどが城代橋のあたりから撮影した写真ですね。
(石垣に植えられたのは、すべて桜。春はお花見にぴったり!ですよ)
続いては、現在埋め立てられてしまった外堀跡(=駿府町)をたどりつつ・・・駿府城の水落交差点を左折。常葉学園高校を右手にしばらく進むと・・・
②草深橋
東草深町にあるのは、その名も草深橋。
現在は自動車も自転車も通る、駿府城の中では最大規模の橋です。
(現在の草深橋)
この辺りは交通量が多く、要注意。
のんきにカメラを持って突っ立っていると、邪魔になるので、
すぐに退きましょう(自分のことです)。
草深橋は江戸時代、「不明門(あかずもん)」と呼ばれていたのだとか。一説によるとここは「跳ね橋」のような形をしており、普段用の無い時は橋を吊り上げて、草深門を閉じていたそうです。
(そのような形式は「跳ね橋」といいます)
<クリック!>跳ね橋
確かに、駿府城のちょうど真裏に当たる位置は、普段閉じられていたのかもしれません。
なんでも、家康が助けた「難破したスペイン船の船長の日誌」に駿府城の跳ね橋のことが書かれているそう。
(ちなみに・・・この船長がお礼にと送ったのが、現在も久能山東照宮にある400年前の洋時計です。
当時の機構がほぼそのまま残る貴重な品として、先日は大きな話題(静岡新聞サイトより)となりました)
※東照宮、Twitterアカウント持ってるんですね・・・。
そして、そのまま東草深町の交差点をお堀に沿って左折。
しばらく進むと、右手に静岡英和女学院高校が見えてきます。そして、左には静岡雙葉高校が。ふたつの高校に挟まれた位置にある橋が、次のこれ。
③凱旋橋
(道幅は狭いです。お堀ではコイが口をパクパク)
(橋の名前が・・・標識でッ・・・隠れているッ・・・!)
「凱旋(がいせん)橋」というお目出度い名前ですが、意外なほど小さい。明治になってこの地に駐屯していた陸軍第三十四連隊を記念し、明治39年にできた…そうです(静岡市青年会議所HPより)。
ですが、橋に刻まれた年度は昭和12年。凱旋橋に関して、詳細な由来はいくら調べても出てきませんでした。
(昭和12年。1937年です)
(駿府城内から外を眺める。ここを陸軍第三十四連隊が凱旋したのでしょうか・・・)
高校の多いこの辺りでカメラ片手にうろついていると、不審者に間違えられる可能性が高いので注意しましょう。
「橋を撮るんです」と恥ずかしがらずに言えるようにしておきましょう。
ちなみに…雙葉高校は、明治36年(1903年)に現在の位置に設立。当時の名前は「仏英女学校」でした。
明治以降の駿府城は、お堀を埋め立てたり、内部にあった建物を解体して建材を市民に配布したりと、様々な工事が行われました。
同時に、静岡県尋常師範学校(現在の静岡大学教育学部の母体の一つ)など数多くの学校や、藩立駿府病院(現・静岡市立静岡病院)など多くの公立施設が建てられてきました。
今回、駿府城外堀を一周して感じたのは、静岡市の都市計画とともに城も変化しているということ。
城主がいなくなっても、周りの住む市民の生活の変化にあわせて変わっていくさまは、今も城が生き続けているような感覚を覚えました。
…と、長くなってしまったので今月はここまで。
駿府城について調べているとき偶然知った、
「駿府城に出現した謎の肉人、妖怪ぬっぺふほふ」も猛烈に気になるのですが・・・。
(ぬっぺふほふさん。佐脇嵩之「百怪図巻」1737年)
今月もお読みいただきありがとうございました。
次回はいよいよ、中堀へ進出です! ここには、皆さん一度は見たことがあるあの橋が登場しますよ~!
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